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どうして浦和に鰻屋が多いのか調べてみた

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浦和に鰻屋が多い理由は、その地形と舟運の輸送網にあった

「浦和には昔から池沼が多かったため鰻がよく獲れた」という話を耳にしたことがある人は多いでしょう。しかし鰻が捕れるだけでは現在のような甘辛の蒲焼をご飯に乗せて供することはできません。江戸時代以前はうなぎをぶつ切りで焼いてから塩・味噌・酢などで味付けをして食べていたらしく、現在の鰻の蒲焼きとはだいぶ掛け離れた料理だったようです。他の魚と同じ様に開いて焼くことはいくらでも出来たと思いますが、それが現在の鰻の蒲焼きの形に進化するのに必要だったものは、「醤油」と「みりん」と「酒」、つまりタレの原料です。まずはこのタレの原料の供給ルートを探ってみましょう。

鰻の蒲焼にはタレが必要だ

現在の形の蒲焼きを作るために必要なのは、タレに使われる大量の醤油です。タレの原料の醤油・みりん・酒の比率は1:1:1であり、後世になって砂糖の供給が豊富になると、そこに砂糖が加わったようです。つまり昔のタレは辛口だったのかな?。後述しますが、醤油と違って酒やみりんは浦和宿の近くに酒蔵があったのでそこから供給できたはずです。

中山道の宿場町の一つである浦和宿にて、蒲焼を提供して評判になったのが江戸時代の三文字喜八蒲焼店(現存せず)と山崎屋平五郎蒲焼商(現在の山崎屋)の2店 。文化8年(1811年)に作成された「浦和宿絵図(さいたま市立浦和博物館収蔵)」には山崎屋平五郎蒲焼商の名が記されています。色々な記録を読むと、1700年頃には鰻を開いて串を打って焼くという調理法が確立していたようですが、現代に通じるタレを使った照り焼きに進化するには濃口醤油の完成を待たねばなりませんでした。

それがいつごろだったかというと、野田や銚子を中心とした関東醤油が容易に利用できるようになった1700年代後半以降のことです。そして現在の馴染みの醤油の味である「濃口醤油」は、文化・文政年間(1804~1830年)に完成したと考えられています。ちょうど浦和宿絵図が作られた時期ですね。それ以前は上方風の薄口醤油が使われていました。

当時の醤油は野田からだと江戸川の舟運を使って一旦江戸へ運ばれ、江戸から芝川~見沼用水路西縁(1728年完成)、もしくは荒川経由で浦和宿まで運ばれていたようです。中山道経由の荷車もしくは荷駄馬利用も可能性はありますが、重い醤油樽(容量は1斗=18リットルで、醤油8升(1升=1.8リットル)入り。1斗樽自体の重さは約3.5kg)の長距離輸送は基本的に舟運を利用したはずです。

ちょっと脱線して醤油樽の重さと大きさについて

四斗樽と一斗樽の大きさの比較

ちなみに醤油の比重は1.2g/mlなので1リットルあたり1.2kgの重さがあります。よって、8升 x 1.8リットル/升 = 14.4リットル入りの醤油樽(1斗樽)は、14.4リットル x 1.2kg/リットル = 17.28kg プラス醤油樽自体の重さ3.5kgで約21kgの重さがあります。荷駄馬に醤油樽を運ばせる時、この8升入の一斗樽を8樽まで乗せることができたと日本国語大辞典には記されていますが、これは間違いだと思う…。馬一頭に背負わせることができる荷物の重さが最大約135kg(単位:1駄)までと江戸時代には決められていて、8樽だと168kgにもなるので積載量オーバーで捕まりそうだ(笑)。馬もへばってしまうでしょう。

醤油樽を8樽ではなく、6樽にすると21 X 6 = 126kgでちょうどよくなる。馬に醤油を運ばせるときだけ荷が重くなるというのは合理的ではないので、醤油の最大積載量は一斗樽が6樽までだったはずなのである。しかし昔の小柄な馬に一斗樽を6つも背負わせることが出来たのかどうか疑問は残る。

日本国語大辞典の同じ欄に酒の積載量についても書かれていて、3斗5升(63リットル)入の四斗樽を2樽背負わせるのが標準だったそうだ。酒の比重は1.0g/mlなので63リットル x 1.0kg/リットル x 2樽 = 126kgの重さになります。そこに四斗樽の重量13kgを2樽分足すと152kgになってしまう…。これも重量オーバーだし、馬の背の両側に大きな四斗樽を2つも括り付けるのは現実的ではないような気がする。これもおそらく辞書の間違い。舟と馬の積載量を間違えているのだろうか??

最大で醤油樽を6樽背負った荷駄馬を河岸から浦和宿まで運んだと想定して、どの河岸で荷降ろしして醤油樽を浦和宿まで運んだのか考えてみましょう。

大間木・芝原・松木河岸の位置(推定)

江戸から芝川経由で見沼代用水を利用した場合の河岸(かし:荷物の積み下ろし場)の位置は大牧・大間木・芝原・松木のどれかになるはずで、一間(1.8m)以上の幅がある道路との接続を考えると、大間木河岸の可能性が一番高い。大間木河岸からだと越谷街道を使って荷車でも輸送できますが、荷駄馬を使う場合はこの3つの河岸のうちどれでもよかったのかもしれない。ただし見沼代用水を舟運に利用できたのは農閑期のみだったそうので、夏~秋の間は醤油樽の輸送には使われていなかったでしょう。

浦和宿最寄りの荒川左岸にあった道場河岸(推定)

そしてもう一つ考えられるのが荒川の河岸です。荒川の左岸にあった羽根倉、道場(どうじょう)、もしくは道満(どうまん)の河岸から醤油樽を運ぶ方が、見沼代用水西縁よりも浦和宿までの距離が若干近い。見沼代用水の大間木河岸から浦和宿までの距離は、昔の道を辿って約5.3km、荒川の秋ヶ瀬~道場から浦和宿まで約4.9km。荒川の水運は見沼代用水と違って農繁期でも利用できた。そして浦和宿までの道の接続が良いのは、、、道場もしくは秋ヶ瀬ですね。

現在の道場の位置。道場河岸の跡は河川改修工事の影響でどこにも残っていない。古地図を見ると浦和ゴルフ倶楽部の北半分は道場の一部だったようだ。

秋ヶ瀬の渡しが河岸を併設していたかどうかは不明

初代の秋ヶ瀬橋が1908年に架橋される前は渡船が使われていて、その船着き場ももしかすると河岸として使われていたかもしれません。現在の秋ヶ瀬橋の少し上流に船着き場があったはずです。その船着き場が舟運の荷物の積み下ろしに使われていてもおかしくありませんが、「秋ヶ瀬河岸」の記録がどうしても見つからない…。もし秋ヶ瀬河岸があったとすれば、そこで醤油樽を下ろすと志木街道経由ですぐに浦和宿に醤油樽を届けることができます。

そして現在の羽根倉橋の下にあった羽根倉河岸は浦和宿までの道のりが約7kmあり、結構離れています。しかも重い醤油樽を背負った荷駄馬は現在の埼京線東側にあった鴻沼川の湿地帯を抜けられなかったかもしれず、その場合は結局別所沼の南側を回って来るしかありません。道のりも8kmに伸びてしまいます。

羽根倉河岸には渡しも併設されていた事は分かっているので、秋ヶ瀬の渡しにも河岸があったとしてもおかしくはありません。

彩湖・道満グリーンパークにあった道満河岸(推定)

また、少し下流にある彩湖・道満グリーンパーク内にあった道満河岸は下肥(屎尿)????が主な荷物だったとの記録があり、浦和宿中心部までの距離が昔の道で約6.3kmあります。よって、結局浦和宿まで醤油樽を送るために使われた河岸で一番可能性が高いのは道場だと思います。次に可能性が高いのは秋ヶ瀬の渡し。どちらからでも別所沼の前を通って浦和宿まで運ばれたはずです。

ところで道満河岸釣り場のウェブサイト【https://www.toda-kousha.com/park/saikodoman/fishing/】を見るとその歴史として、道満河岸のあった場所に釣り場ができたと書かれています。しかし1906年の地図を見ると、釣り場の受付建物がある場所はかつて地蔵木の渡し(地図上では「地蔵川岸渡」となっていますがおそらく誤記。)があった場所です。道満河岸はもう少し下流にあったはずなのですが、そこは現在完全に埋め立てられた所で、彩湖のほとりの公園敷地がかつて道満河岸のあった場所でしょう。

うなぎのタレの原料の供給ルート

というわけで、野田や銚子で作られた濃口醤油が江戸から浦和宿まで運ばれるのに最適なルートは、「荒川 → 道場河岸(or秋ヶ瀬の渡し) → 別所沼の南側 → 浦和宿」だったと考えられます。

先に述べた酒とみりんについてですが、中浦和駅の西側、別所沼通り沿いに安永4年(1775)創業の内木酒造が存在します。ここが浦和宿から最も近い酒蔵なので、ここから酒とみりんを入手していた可能性が一番高いです。荒川の道場河岸や秋ヶ瀬の渡しから浦和宿へのルート上でもあります。そして料理用の酒とみりんならば、産地にあまりこだわりは無かったはず。

内木酒造から浦和宿の中心部まで2.7km。現在は住宅街の中に埋もれていますが、昔は田畑に囲まれていたようです。というわけで、野田や銚子で作られた濃口醤油と、現在の桜区西堀にある内木酒造の酒とみりんを使って鰻の蒲焼き用のタレが作られるようになり、現代でも通じるような鰻の蒲焼きが浦和宿でも作られるようになったのではないかと私は推測します。

浦和近辺のうなぎの漁場について

次にうなぎの供給源はどこかというと、浦和宿周囲の池沼や中小河川がうなぎの豊富な漁場だったそうです。現在も目にすることの出来る別所沼や白幡沼がその名残りですね。浦和の東口だと競馬場の中を流れる谷田川がそれです。

現在は都市化が進んで、かつての池沼や川は埋め立てられたり谷田川のような暗渠となったものが多い。ではなぜ浦和の周囲に池沼が多かったのかというと、それは縄文海進の頃に存在した古東京湾の名残があったからなのです。貝塚の分布と地形から推測した研究によると、縄文時代には古東京湾が埼玉の東部にまで広がっていて、その古東京湾に浦和が岬のように突き出ていました。その後次第に陸地が隆起して古東京湾が姿を消すと、その過程で低地が河川・池沼・湿地帯となってうなぎや川魚の豊富な漁場となったのでしょう。

かつて古東京湾の海底だった埼玉県東部が隆起して陸地になったものの、長い間そこには大湿地帯が広がったままでした。ヤマトタケルの東征でも通過を避けたほどです。ところが1590年の徳川家康の転封後、伊奈氏によって河川の付け替えとそれに伴う排水事業が続けられ、新田や集落が生み出されてきました。「この干拓事業によって湿地が出来てうなぎが捕れるようになった」と書かれていることが多いですが、実はその逆です。干拓で湿地が出来るはずがありません。人の住めないどうしようもない湿地帯が干拓で乾燥化し、集落の数や人口が増え、干拓地に残った池沼や中小河川におけるうなぎなどの川魚の漁獲量が増えたわけです。そして近くに宿場町や市や寺院など、人の往来が多い場所があれば自然とうなぎなどの川魚や、農作物、酒、醤油などが集まったことでしょう。この条件に当てはまるのが浦和宿だったのです。

貝塚の分布と地形から推測する古東京湾

約100年前に関東平野の貝塚の位置を地図にプロットして残した研究者の資料(上記)が、現在でもよく自治体の資料などとして使われています。上図で水色に塗った部分がかつて埼玉県東部の海の底だったエリアです。この地図を読むと、大宮から続く台地の先端が浦和と川口市の北東部で、貝塚が遺跡として多く残されています。浦和の辺りだと大戸の貝塚ですかね。武蔵浦和~中浦和~南与野駅の線路沿いにある低地もかつての古東京湾の入り江で、その後荒川に接続する鴻沼となったのでうなぎや川魚を獲りやすかったでしょう。また、太田窪~浦和競馬場~本太坂下交差点を流れる藤右衛門川(別名谷田川、競馬場から北側は暗渠)も古東京湾の小さな入り江の名残で、うなぎの豊富な漁場だったそうです。近くに小島屋という有名な鰻屋もあります。

国土地理院の自然地形図で確認してみる

国土地理院の電子国土Webをいじくると 、現在の地図にかつての湿地帯や河道を重ね合わせた自然地形図を見ることができます。この地図を見ると武蔵浦和駅がかつての荒川の河道の真上に建っていることが分かります。ほほ~。そして南浦和~武蔵浦和間に見られる坂道や段差がかつての海岸跡もしくは荒川による侵食跡だということもこの地図で読み取れます。埼玉県庁~埼玉県警東側の窪地も白幡沼に繋がる低地を埋め立てた跡です。さらに見沼田んぼの中を流れる芝川や、浦和美園を流れる綾瀬川はまさに古東京湾の名残です。

街道沿いの宿場町で人が多く、鰻の漁場が周囲に豊富、醤油の舟便輸送が容易、酒蔵が近くにあったため、鰻屋が浦和に増えた

というわけで、うなぎなど川魚の漁場が近くにあり、醤油など調味料の仕入れが舟運で容易にでき、内木酒造という酒蔵が近くにあって、酒やみりんの入手が容易だった浦和宿は鰻屋が増える要素がたっぷりだったようです。浦和の他にも川魚料理を出す店がある場所(特に明治以前に創業した店がある場所)は醤油や酒の供給ルートが近くにあるはずです。こうした歴史を調べてみるのも面白いですね。


例えば川越も、新河岸川で荒川の舟運と接続し、醤油・酒・みりんの入手が容易な町だったので、1807年小川菊(おがきく)という鰻屋が創業しています。川越は池沼や中小河川が浦和と同様に多く、うなぎは近くの伊佐沼や入間川などで捕れたようです。また1767年には現在の川越市仲町に松本醤油店が創業し、酒・醤油・味噌の醸造が始まっています。1789年には笛木醤油が創業。1800年代に入ると新河岸川を使った舟運で江戸へ向かう下り荷に醤油が含まれるようになり、1840年の関東醤油醸造番付に川越の醤油がランクインしていました。

岩槻は元荒川と綾瀬川を利用した舟運が盛んで、城下町兼宿場町として栄えていたため、遅くとも1843年にはふな又という川魚料理を出す脇本陣並みの料亭が存在していました。ほてい家という江戸時代から続いている料亭もありますが、創業年は不明。元荒川と綾瀬川ではうなぎなど川魚がよく捕れたそうです。

【参考文献】
彩の川研究会 (2015)「 埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史(本編)
資料編(調査票・さいたま越谷方面 1/1)
資料編(調査票・さいたま越谷方面 2/2)

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